2022年2月19日22:27, 13階について
13階の活動を始めてから、わたしにしか出来ないことをしているんだなという実感が湧いています。
私がボードゲームの論文を書く理由で書いたとおり、ボードゲームの論文はわたしが書きたいから書いたものです。
誰かに公表したくて書いたものでもなければ、ゲームマーケットで売るために書いたものでもありません。
論文は書いた時点でわたし自身の目的を達成しています。
それだけで十分楽しい冒険だからです。
それにも関わらず、13階はゲームマーケットに参加し続けています。 今の所、2019年秋から2021年秋まで欠かさず出展しました。
だんだんと、ボードゲームの論文を書くことは、わたしにしか出来ないことなのだと思い始めました。
これは技術的な話ではありません。
できるかできないかという話です。
論文に限らず、あらゆる作品は独自性を持っています。 ボードゲームも、その論文もそうです。
独自性を発見するためには分解能力が必要です。
例えば論文を書けるというだけでは独自性になりません。 またボードゲームの論文を書けるというだけでも不十分です。 ボードゲームに関する教育的な効果やコミュニケーションに与える影響などを論文として発表している人たちはいます。
分解を進めて「ドメモというボードゲームに関して、プログラムによるシミュレーションを用いることで、様々なプレイヤーモデルを作成しその動作を検証した論文」を書けるとすれば、これは十分な独自性を持っていると考えます。
つまりこれがわたしにしか出来ないことです。
一つだけとは限りません。 ボードゲームの論文に関しては、ドメモ以外にも以下のものを書きました。
ボードゲームの論文だけでもないです。 おそらく、これから先にもわたしにしか出来ないことを発見するでしょう。
独自性は悪く言えば孤独ということです。
誰も行ったことがない、誰も知らない、誰も考えたこともないことを突き進めるのですから、当たり前のことかもしれません。
先駆者がいるわけでもない、そもそもそこに道があるのかも分からないような世界を歩き続けることは、案外しんどいものです。 冒険は楽しいです。 しかし、冒険し続けることは苦痛を伴います。
結果、わたしはサボるのです。
サボるときは、手順が明解で、みんなが一緒にやってくれるような、面白くて楽しいことをやりました。 名著を読む、名作ボードゲームで遊ぶ、などなど。
サボっているときにふと思ったのは、私はいつまでわたしにしか出来ないことから離れているのだろうということでした。
家出した少年を心配する家族のような気持ちでしょうか。 自分の中から大切なものが離れてしまったときに感じる、どうしようもない切なさです。
わたしにしか出来ないことはよくよく考えれば誰もが持っているものです。 ただ、それを続けられるかどうかはそれぞれの考え方や思想、今までの経験に依ります。
私の場合、サボると寂しくなります。切なくなります。悲しくなります。
わたしにしか出来ないことが心の中からなくなることは嫌です。 帰ってきてほしいと切に願ってしまいます。
そうは言っても、サボらずに続けることは面倒くさいことで、ときどき退屈で、投げ出したくなるのです。
ただ、うまくやりきれたときは喜びになります。 その思いがけなさが冒険らしさであり、サボらずに続けようと思わせてくれるのだと。